自分の常識だったものが他人にとっては非常識というのはよくある話だ。しかし人様が考えることというのはだいたいたかが知れている。似たり寄ったり、面白くもなんともない。俺は最近までそう思っていた。──あの時俺はまだ多感な小学生だった。俺の親父は酒乱でそれが後の離婚の原因になったのだがその話はいい。俺はいつも怯えていた。たとえあの親父がシラフだったとしても何を言い出すかわからないという恐怖をいつも感じていた。その親父にある日突然出ていけと言われた。ほら見ろと思った。俺の親父は酒のやり過ぎで頭がいかれちまってるのだと子供ながらに思った。俺はぐずりながらいつも虫捕りに通っていた丘の上の神社に行った。見慣れた木々、見慣れた石段、見慣れた建物、そして見慣れた穴。その穴はおそらく落ち葉などを焼くために境内に設けられたものだろう。いつも黒い燃えカスが溜まっていた。俺はそれらを順に見た後、賽銭箱の前の木の階段に座った。ふう。森は静寂に包まれていた。俺はその時一瞬恐怖を感じた。親父に感じるそれとは違う種類の恐怖だった。「おーい、ここだよここ!」それはあの穴のほうから聞こえてきた。俺は恐る恐る見に行った。そこには何もなかった。声だけが穴の中から聞こえてきた。「よう、鼻垂れボウズ。元気か?」俺はなんだこりゃとは思わなかった。良くも悪くも純粋だったのだろう。俺ははいと答えた。「あのとき親父をぶっ殺してえって思ったろ? ほら、こないだ親父が母ちゃんを思い切り足蹴にしたときだ。お前は何もしなかったよな、泣いてただけで。だがオレは知ってるぞ。お前は本当は親父につかみかかりたかったんだろ?」俺はいつも大人にするようにまたはいと答えた。「いいことを教えてやろう。ここに落ちてる炭を食え。大丈夫だ死にゃしない。これを食えば望みが叶う。あの親父をぎゃふんと言わせることができるんだ。嘘じゃない。その証拠にオレはこうしてしゃべることができるようになった。な? 食ってみろ」俺はその声の言うことを疑わなかった。俺はしゃがんで炭を少量取るとなめてみた。焦げ臭い味がした。「ほら、食えよ。飲み込め。あの親父を倒したいんだろ?」俺はなぜか急に怖くなって全速力で走って家に帰った。親父が居た。車の手入れをしていた親父はいきなり痛っと言って手を押さえた。血が出ていた。──穴はいつの間にか埋められていた。最近あの炭を食べたくて仕方ない。
|